top of page
検索
執筆者の写真律子 中村

幸せなストーリーがなくても、だいじょうぶ!

最近、ふと、なぜ料理に関心があるようになったのかな?と振り返っていて、私の食の原点には「幸せなストーリー」がないことに、改めて気づきました。そして、それは料理を教え始めた私の「アドバンテージ」と、今は胸を張って言えるようになりました。


多くのお料理研究家、お料理の先生からは「食にまつわる幸せなストーリー」が語られることがあります。


2013年の春、初めて一人でフィンランドに和食を教えに行った時のことです。ヘルシンキの駅前の北欧らしいインテリアのホテルの部屋で、ひとりなので夜外出することもなく、テレビのチャンネルを回していた時、ふと、とてもきれいな料理研究家の先生のお料理番組が目に留まりました。BBCだったと思います。


長い髪、キラキラ光る眼差し、豊かな胸、美しいデコルテを強調したその容姿に、一瞬でくぎ付けになりました。日本では、「セクシーさ」と「料理研究家」のイメージは両立しにくいからです。でも、私の印象はそれだけでなく、彼女の語る「幸せな食のストーリー」にしんみり耳を傾けることになっていきました。「子供頃、お母さんが作ってくれた美味しいご飯、可愛いお菓子、こういった思い出が私を料理の世界に誘ってくれたの」そんな主旨の話でした。これは、よく日本でも料理の先生、料理研究家の先生が語る「幸せな食のストーリー」です。


ヘルシンキのホテルの快適だけど小さな部屋で一人ちょっと、しんみりしてしまいました。。。「やっぱりそうなのかあ。私にはそんなストーリーはないわ」「明日のレッスンだいじょうぶかなあ」


子供の頃の実家の食卓を思い出していました。フルタイムで働く余裕ない母親、買ってきたコロッケがそのまま紙に包まれてテーブルの上にのせられ、それを美味しいと思って食べていました。母の代わりに祖母が作る食事はまっ茶色で、高校時代は食事のことで「もっとまともなものを作って!」とケンカしたり、高校生なのに外で夕食を食べて帰宅したこともあります。食卓は幸せな時間ではなかったのです。


今思うと、母は母で、祖母は祖母で精いっぱいのことをしてくれていたのだと思いますが、子供にとっては食事が美味しくないと、食卓、家そのものが辛いものでした。


受験の時の無理と食の不摂生がたたり、病気になりました。

大学生になった時に、自分の健康を自分で守れず、目玉焼きくらいしか作れない自分に愕然として、大学4年生から料理教室に通い始めました。まったく料理ができない大学生の私に、同じテーブルになったお母様たちは優しく見守ってくれていました。


少しずつ料理ができるようになると、自分の手で、美味しいものを作れることが嬉しく、楽しくなっていきました。台所のいい匂い、千切りするときの心地いい集中、組み合わせを考えるおもしろさに目覚めていきました。楽しいな。


30代、29歳で結婚したたぬき(夫)は美味しいもの好きで、「美味しいね」と食べてくれることで嬉しくて、目玉焼きしか作れず、母からはなにも料理を習えなかった女の子の私も、徐々に料理が手早く、うまくなっていきました。


40代、フルタイマーとして全体をマネジメントをしながらも、「料理だけは手放さない」ようにしました。家族を繋ぐ絆のように思っていたからです。


50代、30分で3品作るなんて、今では何も考えないでもできるようになりました。電子レンジ、ガスコンロ、古い我が家の台所でも魔法のように次々と美味しいものが作れます。薬膳フードデザイナーでもあるので、家族や自分の体調に合わせて日々薬膳視点でもご飯を作っています。


そのおかげか、家族も私も何年も風邪をひいておらず、受験から40年も続いた私の病気も改善されたのです!大学病院のドクターもびっくりです。


「自分は料理が上手じゃない」「うちの母親は料理下手だったから」とコンプレックスを持っている人、逆に「お母さんの料理がうますぎて、自分は何もできない。勉強しかしてこなかった」と思っている人に「だいじょうぶ💓ヽ(^o^)丿」って言ってあげたいです。いろんな理由で、食に「幸せなストーリー」がない人はたくさんいると思います。



そんなすべての方に「だいじょうぶ」と言って、わかりやすくお伝えできるのも私の強みだ、と気づきました。できない、しらないから、ひとつずつできるようになっていったからです。


「食に幸せなストーリーがなくてもだいじょうぶ」「自分で自分の食のストーリーを作っていきましょう」その先に、


自分と大切な人の笑顔の人生があると信じています。


「心を込めて、丁寧に」お伝えしていきます。


閲覧数:5回0件のコメント

最新記事

すべて表示

댓글


bottom of page